新潟大学法学部2012年度後期日程小論文模範解答例

〈課題文は著作権の関係上省略〉

 「自由であること」は、その人にとって選択肢が無限にあるように見えるため、「息苦しさ」を与えるものであると考える。そもそも「自由」とは、絶対君主制が布かれていた国々において、「財産権の自由」を求めたものであった。その自由は幾多の人々の苦難の末に勝ち取られた、人類にとって永久不変の真理であるように思われたのは想像に難くない。しかし、今や「自由」そのものの意味合いが増長し、逆に人々を苦しめているともいえるのではないだろうか。

 「自由」が追求された末に、その真逆に位置する全体主義に陥ってしまった例を私たちは歴史上の史実に見ることができる。それはナチスドイツにおける全体主義だ。第一次世界大戦後のドイツにおいては、当時最も民主的だとされたワイマール憲法が存在していた。ドイツの国民はその憲法下で自由を享受できるかに思われた。しかし、実際はその逆で、突然与えられた「自由」にドイツ国民は戸惑った。そして、当時台頭していた、ヒトラー率いるナチスドイツが政権を奪取するや、ドイツ全体が全体主義へと走ったのである。これは「自由からの逃走」と呼ばれる事態であった。このような状況がなぜ生まれたかというと、それは「自由」というものの強制が行われてしまったからだと考える。

 すなわち、「自分の意思に従いどのようなことでもしてよい」とされたとき、人は常に他者からの比較の目にさらされるのである。日々何を話し、どのような行動をとり、どのような服装をするかまでが自由であるとき、他者からの視線に耐えていくことを感じ取るのである。こういった状況下では、人は自分のあらゆる選択が他者の評価にさらされる。自分の一挙手一投足のすべてが誰かの目に留まり、評価され、それが自分自身の価値につながってしまうのである。自分の価値が他者に依存してしまう状況、それが「自由」自体が人を束縛してしまう逆説的な状況なのである。

 自由がその人自身を縛ってしまう事態においては、ある程度の「ルール」が必要とされる。「ルール」とは、その社会における規範や慣習を意味すると考える。こういったルールが有形無形に人々を緩やかに連帯させることにより、人々は何かに寄り添っているという安心感を得られるだろう。その安心感こそが、人々が極端な方向に走らせることを止める防波堤となるはずであるのだ。「自由」が叫ばれる今日、実はそれをまとめるルールが必要なのではないかと考える。

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