人間去り際が肝心

「喧嘩別れ」という言葉があります。誰かと折り合いが悪くなって、喧嘩して、サヨナラ。そういう別れです。

もちろんお互い人間なので、仲が悪くなることはあります。ただ、その人からの「去り際」はなるべくフレンドリーにしたいものです。いわゆる「穏便に」というやつです。

私は「みんなと仲良くしよう」とか毒にも薬にもならないことを言うつもりはありません。なぜなら、誰かとの別れは、必ずしも「今生の別れ」ではないからです。その人と偶然会ってしまうかもしれない、というわけではありません。どこかのタイミングで、その人を必要とするときがやってくるかもしれない、ということです。

私も、こういった経験があります。他の塾に通っていた私は、その塾のオーナーといわゆる喧嘩別れをしたことがあります。そのときは「ああせいせいした、やっとこの人から離れられる」と胸をなでおろしたものです。しかし、数年後、自分が働いている塾より、そこの塾の方が向いている生徒に出会いました。でも、別れ際がきれいでなかったので、紹介できない、というジレンマに陥ったのでした。

人はどこでどうつながっているかわからないし、これから先どうつながっていくのかわかりません。必要なときに必要な人とつながることができる、そんな人間関係を築いていくことが、生きていくのに重要だな、と思います。どんなに相手との相性が合わなくても、どんなに現在の環境がイヤでも、そこからの「去り際」はきれいにしたいものです。その「去り方」が今後の人生を左右することもあるからです。

「中学生の部活」論

ぼくは塾で中学生対象の授業もします。
中学生あるあるなのが、「部活問題」です。
特に運動部に多いのですが、「部活で疲れて勉強できない…宿題もやってない」という、顔が欠けたアンパンマン状態の生徒たちがいます。下手すると宿題をしてきていない上にマンツーマン指導の授業で寝る生徒までいます。

こうした生徒たちを見て思うのが、「部活動は何のためにあるのだろう」ということです。当然のことですが、中学生の仕事は勉強をすることです。部活をするために学校に行っているのではありません。誰でもわかるはずのことなのに、早朝から朝練、放課後は夜まで練習、土日は試合と、なぜこうも中学生に部活をさせたいのかと思うこともあります。

もちろん、部活動そのものを否定するわけではありません。部活動は体力や精神力を涵養し、その生徒の成長に資する部分も大きいとは思っています。ただ、その「程度」が問題なのです。行き過ぎた部活動は害悪以外の何物でもないと思います。

文武両道、勉強と部活動の両立があるべき姿だ、という方もいらっしゃるでしょう。それは半分は正しいですが、半分は間違っています。なぜなら「両立」ができる生徒はそもそも「超人」だからです。朝も夜も運動をして、帰宅してから塾に行って勉強して…を繰り返せる生徒はほんの一握りです。多数の生徒が実現できないという事実から目を背け、「べき論」に逃げてはいけないと思います。

これはあくまでぼくの個人的な意見ですが、「行き過ぎた部活」で疲弊しているなら退部すべきだと思います。極論かもしれませんが、勉強と部活との両立ができなくて希望の高校に行けなかったとしても、誰も責任は負ってくれないのですから、そうする以外にないと思います。もちろん、適度かつ適切な部活動は大いに楽しんでほしいです。

「部活動」の名のもとに生徒を疲弊させることなく、生徒の将来をより長いスパンで見ていくことが必要です。

東京大学文学部2018年度推薦入試小論文模範解答例

東大の推薦入試の小論文の模範解答を書いてみました。当然ですが完全自作です。要約800字は意外と文字数がシビアですね。さすが東大といったところです。課題文は著作権の関係で掲載できませんので、東京大学のWebサイトから問題は閲覧してください。東京大学Webサイト:https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/admissions/undergraduate/e01_29.html

<課題文は著作権の関係上省略>

(1)右の文章の大意を800字以内でまとめなさい。

 「美術館」に関して、プルーストヴァレリーは正反対の立場を表明した。プルーストは、美術館を正当化するが、ヴァレリーはそれを否定する。芸術品は、それが傑作であればあるほど唯一無二の存在であり、それ自身とは違う芸術品との共存を受け入れなくなる。したがって、多様な美術品が、もともとそれらが存在したはずの建築から引き離され、お互いを否定しあう美術館とは、時代の抱える不幸でさえあるとヴァレリーは言うのだ。確かに、芸術品は、諸文化の一体性や有機的な同時性が保たれるような、それが相応しい場所に置かれるように制作されていた。その一体性を私たちは楽しむ。しかし、実際は、芸術品たちはもともとの主を失い、ゆえに文化の一体性を失っているのではないだろうか。これは建築の美術館化に他ならない。そもそも、芸術のすばらしさとは、それ自体が現に発する真正さにより担保されるものだ。その真正さを味わうことと、美術館という仕組みは確かに関係がない。だが、芸術品が、建築、すなわち環境との一体性から解き放たれたことでもある。元来持っていたものとは別の自立性と独立性を獲得すると言うならばどうだろうか。環境との離別とは、芸術家が作品から身を引くことだ。それにより成立する作品の内的な空間を象徴するのは、まさに装飾のされてない美術館なのである。ヴァレリーは美術館を否定したが、プルーストは逆であった。芸術家が創造の営みを通じて建築という環境から抜け出し、その環境を超克する場所が美術館なのである。それを通じて芸術家が創造したものが作品となるのだ。芸術家の創造したものが作品となることは、実は芸術家自身が、作品に内的な空間を残すために身を引くことであり、それは芸術家の死を意味する。それを通じ、作品は第二の生命となるのだ。ヴァレリーにとって芸術の魅力は創造の過程にあったが、プルーストは美術館で芸術品から恍惚感を得られれば良かったのだ。

(800字)

(2)右の文章に関して、あなた自身の考えを1000字程度で述べなさい(美術・音楽の話題に限定しなくてもよい)。

 筆者は文章において、芸術家の手を離れたことにより芸術品が第二の生命を得ると述べている。私は、「文字による作品」とも同じ構造を有していると考える。人類は文字を発明することにより情報を伝達し、記録し、後世へ残すことができるようになった。そして文字の組み合わせである文が組み合わさったもの、すなわち文書は客観的に情報を伝える存在ではなくなった。あるときは筆者の考えを他者に表明するものであり、またあるときは筆者が感じたことを表現するものとなった。文書はあくまでも、それを書く者の意図や意見を表現する手段であることは確かだ。しかし、実際は、文書というものは、印刷されるなどして形をもった瞬間、もともとの筆者の手を離れて、芸術作品と同様に文書自体が生命として躍動するのではないかと考える。なぜなら、何かに記録され他者の目に触れるということは、その文書の解釈は他者に委ねられることとなるからだ。これにより筆者が当初意図していたものとは全く違う解釈がなされることは、当然あり得る。文書をいかに解釈するかはまさにその読み手の自由である。それはもともとの筆者の手を離れたことの帰結であり、筆者が自身の解釈を強制することは決してできない。これは筆者からすれば不本意である場合もあるかもしれない。しかし、文書にとって、筆者の不在はその文書の自由を意味する。文書は読み手による解釈が可能であるという意味で自由となり、それは文書自体が豊饒な意味をもつことに他ならない。このとき、文書はいわば「芸術」となって、朽ちることがなくなる。もちろん、どれほどの読み手からどのような評価を受けるかは文書によって異なる。しかし、本来的な意味において、すなわち記録された途端に筆者が存在しなくなるという意味において、元来文書というものは自由な存在なのだ。しかも、文書は、形は変わることはあれど生き続ける。そして、文書によっては時間を超越して数多くの人々の目に触れる。したがって、文書は、この世に生を受けた瞬間から、時間を超越する存在として、多様な可能性を保持しながら生き続けることを運命づけられているのだ。こういった点において、文字によって表現する者と、文字による作品との関係は、芸術家と芸術作品との関係に近似する。そして、芸術品がプルーストに恍惚感を与えたように、文書もまた、それを解釈する者それぞれに対して違った意味を与えていくのである。

(1000字)

はじめましてのご挨拶

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はじめまして。キクチと申します。

福岡市で塾のセンセイをしております。しがない塾講師ですが、講師としてのプロ意識をもって日々授業にあたっています。塾・予備校業界に入ったのは4年前で、当時は英語講師として授業をしていました。今はどちらかと言えば小論文の講師として授業をする方がすきです。塾や予備校ではあまり小論文の授業というのはないんですけどね。

このブログでは、自分の思ったことや感じたことを気ままに書いたり、これまでに書きためた小論文の模範解答例を載せたりしたいと思っています。「小論文の模範解答」は需要があるのかよくわかりませんが、届く人に届いたらいいかなって思っています。

皆さまよろしくお願いいたします。